何見てるの?

日々見ている興味を抱いたものを書き記したブログです。

1年前は病院のベットに寝ていたなって

気づけば1年たってるとメモを見返している。

今年の夏は暑いなぁと感じつつ、去年の今頃は救急車で搬送されて病院に入院していたなぁと思いだしつつメモを捲っている。
足元がふらつき酔っぱらってもいないのに千鳥足で吐き気がとまらず食欲もなくて、どうにもいかなくて救急車を呼んで兄に付き添いをしてもらって、そのまま入院という流れになった。
初めての救急車でどこの病院に運ばれたかもわからず、もろもろの手続きはやってもらった。個室しかなかったので、大部屋が開くまでその部屋で。
腰椎穿刺も初めて。痛かったけど、それでも体の感覚がしびれてるからあれは痛いというものだったのかなぁとどうも曖昧。
いつの間にかCTとMRIのサインをしていたようだし、そのへんは判断はできていたんだなぁと思った。

なんてことを書いたまま放置して、1か月たってしまった。

去年もつらかった夏が今年の夏は去年に増してつらくて動ける日が少なかった。
いろいろと考えることが多くて、でもどうにもならなくて、鬱々としてどうしようもなくってしまったので勉強を始めた。
ユニバーサルカラーの検定を受けることにした。
単純に好きな分野の勉強楽しいなぁって。自分の視覚については、もともと目が悪かったのもあり、さらに発病以降気をつけていかなくてはいけない事項になったので、そういう意味でも学びとして重要なものになった。
色彩の表現としての光と印刷と、それを明確に理解して自分の生活の中に役立てれればいいなと思う。

買う喜びがある漫画本ってのがあってね。

新刊が出るたびNEW ALBUMを手にするような…

BLUE GIANT』は大人気の漫画で面白くて夢中なのは事実なんだけど、いつもいつも一番楽しみにしているはそのカバーデザインである。
作品タイトルがフォントを含めデザインが全巻違うからだ。

背表紙は同じなので並べてしまうとわからないが、カバーを見るとその施されたデザインがその巻の通奏低音のようにずっと流れているように感じられる。

さらにバーコードが印刷されたサイドにはその巻のCONTENTSがCDアルバムのように収録曲の様相で並んでいる。

カバーをめくって本体の表1を見てもその巻のイメージがカラーが刷られていて徹底している。CDのリーフレットみたいじゃんっていう。
こんなに凝ってるのにこの値段でいいんですか?と思ってしまう。そしてありがとう。毎回毎回楽しみ。

表紙を捲ったら笑ってしまったよ

(もちろん漫画そのものが好きなのは前提で。)
うわ、いいんですか?贅沢に遊んでるじゃん!デザイナーの笑い声が聞こえてきそうだよ!という漫画は『血海戦線』シリーズのカバー下、本体の表紙。
本体の表紙が2C刷り!贅沢!なんたる!
とても楽しそうだなぁいいなぁなんて、漫画で贅沢に楽しんだあとのデザート的なおちゃめなデザインを笑顔で味わうのである。

デザインも漫画そのものも

漫画は一冊で濃密な芸術だなぁって、漫画でいっぱいになった本棚を眺めながら思うのだ。電子も気軽だし場所をとらない利点はわかるが、どうしても紙でほしいってのはそういう楽しみがあるからなんだよっていう話。

絵を眺めていると性別とかどうでもよくなってしまう。

描かれているのは何かな?

なぜか実家には『一枚の絵』っていう雑誌が毎月届いていて、それ以外にルーブル美術館全集という分厚い本があって、写真アルバムの表紙は近代作家の絵が印刷されていて、季節ごとにかけ替える滝平二郎さんの絵があってそれ以外にもちょこちょこ絵が飾ってあった。私が美術に興味を持つには当たり前の環境だったのかもしれない。

そこから美術について調べたり作家の周辺環境や社会を巻き込んだムーブメントに興味がわいて大学でそのあたりの勉強をしたのだが、そこから好きになった作家がアンディ・ウォーホルエゴン・シーレフランシス・ベーコンである。(※卒論はゲルハルト・リヒター

衝動的にその情熱をキャンバスにぶち込んだような画面に魅了されて夢中になったのだが、そこからアーティストのその熱はどこからくるのだろうかと、それまでの経歴やバックグラウンドが気になって調べてなるほどなと感じることが多くあった。
例えば移民●●世であるとか、●●人であるとか、性的マイノリティであるとか、疎外されレッテルを張られた経験のある人物だった。
それでも彼らの作品は湿度をもって筆が走っていてねっとり絡みつくようなインパクトを持って画面からその存在を主張する。その描かれた人物が男だろうと女だろうとどうでもよくなる。そんな視覚体験をさせられた作家なのだ。

漫画からも性別などどうでもよくなる経験があった

9歳上の兄から「少女漫画だから読めるんじゃないかな」と小学校低学年の頃に渡されてた漫画が『魔天道ソナタ』である。
今思うとなぜ兄がこのプリンセスコミックを持っていたのかよくわからないが全巻揃っていた。
少女漫画なのでキラキラしていて天使と悪魔のファンタジーストーリーを夢中になって読んだが、これが耽美的表現だとは知らず一気に読んだのだ。
それから、ピアノの先生の娘さんが読まなくなった漫画『マージナル』がピアノ教室の待合室においてあったので読んだ。
この作品ではっきりと男女の性別的役割の必要性が描かれた異世界が描かれていたことからそれを意識するようになった。
そういう意味でこの作品は私にとってどうでもよかった性別を意識させた衝撃的な漫画だったのだ。

とりあえずの締めとして

このままだと広がるばかりで話が終わらないので、そんな経緯から俗にいうラブストーリーという型にはめられた男女のもつれにあまり興味を持たず、絵画も映画も漫画も「あなたの血肉を見せてくれ」という少々ずれた感覚を自分の根底に築いてしまったのだっていう話。

書店内を巡回するのが好きです。

さぁ今日も書籍に潜む素敵な部分を発見しよう

そこまでの気持ちで書店内を歩き回ってるかどうかは自分のことながら定かではないが、本屋さんでの出会いが自分の感性の扉を開くのは間違いない。
本屋さんでもCDショップのようなジャケ買いの衝動が起きるのだ。それはハードカバーでも文庫でも新書でも、コミックでも絵本でも起きる衝動だ。

書籍のジャケ買いって?

それ起きるのは新刊の平積み台や、その時期のフェアになってる面陳台だ。
知らない作家や有名作家であっても、新刊は初お目見えなので購入意欲を掻き立てる装丁はとても大事だよね。そしてそんなセンスの塊をもつ装丁デザイナーさんは尊敬する。


表紙のデザインは表題と挿画のバランスを含めたもの。
ハードカバーは使用する紙、タイトルの箔押しやPP加工、表紙をめくっての遊び紙のあしらいなど、工夫を凝らされているものを多数観察することができる。
文庫や新書は、既定のスタイルがあって、すべてそこに則って版組がなされる…なんてことはなく、レーベルによってかなり異なるし、ページがまたがる場合に工夫がなされている場合がある。
同じページ数であっても本を片手で開いたときの開きやすさは、紙の重さによって変わる。ぺらぺらとめくっていく際に、指の下に文字が隠れてしまったり隠れなかったり…
それから章立てがある場合のベージ上の章立てのあしらい(俗に柱という)が、ノンブルに対してすぐ横であったり、1ページ上での中央(真ん中)であったり、ノンブルが下部にある場合、柱は上部に…といった違いがある。


それだけでもけっこうぱらぱらしてるだけでもおもしろいんだが、それ以上にぱらぱらしていると出版社によって個性がでるなぁと感じたのは書籍の文字フォントである。
それを一番感じたのは、偕成社さんが発行している書籍だった。


児童向け新書の売り場内でぱらぱらしていた時に偕成社さんの書籍だけ何だかニュアンスの違いを感じたのだ。書体?書体のせいかな?でもこんな印象の書体ってなんだろう。私が今まで使用してきてないフォントだろうなと思いつつ、他社の新書でおなじ文字(主にひらがな)を並べて比べてみたらやっぱり違った。


書籍のイメージって、装丁とページのあしらいが主だと思っていたが、それよりも文章を綴る文字がメインであることをすっかり忘れていたのだ。私は。


とはいえ、文章にイメージが付くような書体を使うのは読み手の想像力を邪魔してしまわないか?とも思え、そうならないための絶妙なバランス感覚が必要なのだろう。その点、先の出版社さんの新書もハードカバーも同様の文字を使用しているものが多数見られ、出版社のイメージからとてもマッチしていて、デザイナーさんの感性はすてきだなと思った。

結局何よ?

表紙が素敵だし興味がわいたし買ってみようっていうのはもちろんあるけど、文章読み込まずとも、実はぱらぱらめくっただけでも“工夫”が見られるのが本。
そこで気にいったのであればレジに向かってしまうのが魅力だなって。書店に巡回するたびに感じるのです。

音楽が好きなのはいつからだっただろうか。

結局のところ音楽が好きなのであり。

退職して療養中に、今まで自分の興味の範疇から排除して手放してしまっていた音楽をまた摂取しようと思い、ライブに出向くのは体力的に無理があるのでWeb配信を見るようになった。
コロナ渦によって多くのライブが中止になり、なおさらWeb配信がかなりの数が開催された春から初夏だった。

Web配信ライブの情報は、Twitterでフォローしていたアカウントから得たものであるが、高野寛さんと緒川たまきさんのコンビはなつかしくてこれは見なくてはと配信をわくわくしながら待った。
個性豊かなゲストのライブとアートとのコラボレーションが表情豊かで見ていてとても楽しかった。

だけど涙を浮かべながら配信を見ていたのは、トクマルシューゴさんのTonofon fesのリモート開催だった。
正直トクマルシューゴさんは知らないアーティストだったのだけど…
一体何にそんなに感動したのかというと、オーケストラの音色を浴びる幸福感を思い出させてくれたことだった。

音楽体験を思い出す

休日はクラシックのレコードがかかる実家だったので、音楽は日常の一部であり、自分もピアノを習っていた。歌が好きで小学校では合唱をしていたし、そのまま音楽に重きをおく高校で声楽の基本の基を学びつつ毎年ホールでクリスマス礼拝をオーケストラと共におくり(そんな学校だとは知らなかった)、大学ではバント活動をしていた。
だが働き出してからは音楽にこだわるのをやめた。そんな時間も余裕もすっかりなくなったのだ。

でも退職して初めて仕事以外のことを考えてもいい自由な時間を得て、少しずつなかったことにしていたことを思い出すようになったタイミングでのWeb配信だった。

楽器の種類も音色も正解などなくて、重なりあっていく楽曲の完成形を想像しながら耳で様々な音を拾ってはその展開にわくわくする、その幸せな感覚が嬉しくて泣いてしまったのだ。

私はアーティストの名前を覚えるのが苦手だし(あまり覚えようとしていないのかもしれないが)、浴びるほどの多種多様な音色のある音楽はそれだけで一つの音楽の塊で、それがアーティスト個々人に属しているものとして認識していない。
それはその場で出来た完成形なのであって、別の機会でまた同じメンバーでおんなじ楽曲を演奏してもそれはまた別物だ。

本当に音楽は簡単に時空を飛び越え記憶を呼び起こすから、それだけでも幸せだなと思う。

本という形を持った印刷物が好きです。

ブログを書くようになるなんてなぁ…

パソコンが“パーソナルなコンピューター”になったののは私が大学に入ってからで、それまで文章入力作業は父のおさがりのワープロであった。

ワープロで原稿をつくり、漫画の写植を作り糊ではりつけ本文紙面を編集し、表紙は2C用に版を色ごとに別に作成して入稿した。
ミニコミ誌だったが、友達の小説や写真やイラスト、漫画、エッセイを盛り込んだ本で、できたときは本当にうれしかった。

 

そんな経験を大学時代にして、自分も本に携われたらなぁと思っていたが、有名でもない女子大卒の学生が就職氷河期に出版業務につけるような会社に就職できるわけもなく、それでも大学の学生課から紹介してもらった編集プロダクションで学生時代でアルバイトをしていたので、そのまま拾ってもらう形で就職したのである。

 

業界のことをろくな知識もなく与えられた仕事をこなすうちに、編集者や校閲をやるうえでDTPがわかるほうがいいと言われ、言われるがままに他社に出向し、初めてのMacでの書籍組版のノウハウをOJTで学ぶことになったのだ。

そういった経験の中で、書籍のデザインは一体どこをどのように気をつけて作っているのか、手掛ける書籍のタイプによって全く異なることがわかってから、本屋さんで本を開いたときに制作者の気遣いがわかってさらに印刷物が好きなった。

 

本は文章が一番の主体であって、文章があることで書籍という印刷物が成り立っているのはその通りなのだ。
だがその書籍の主役を引き立てる役目を果たすのが書籍のデザインなのだと思うと、その書籍の演出がそれぞれ異なるので、演目を見ているようでドキドキして楽しくなる。

日々の生活上で何を見てるのか、自分の記録として書いていこうと思う。
別段、なんてことない日々の記録なのだよ。